『生命と現実』を読んで

様々な言語とその時代の文体による書き込みの算法がある。木村敏は日−独−仏−日、中井久夫は日−仏−仏−日の文脈を生きているといえよう。
「こころの科学」と「(メタファーとしての)脳科学」の均衡をどう保つのか?加えてジャック・ラカンはほんとうにわからないのか?
木村がこれから歩む課題は果てしないと思えるが、医学的にも思想的にも精神病理学はまだ生きていると私は考えている。木村は時間軸における病の分布を次のように明示している。祭りの前の統合失調症、祭りの中におけるてんかんと躁鬱、祭りの後にやってくる欝。
木村のこのような文体は、観念的な存在論的差異ハイデガー)と個的な生命論的差異(ドゥールズ)を往還していると理解することが求められているといえよう。
最近考察を進めている「タイミング」の概念は、社会学エスノメソドロジー(会話分析)とラカン精神分析が交差する「あいだ」にあると思われる。
ゆえに、これからは心理とその中から生まれる愛の複眼的視点で生きることが求められることだろう。